一般社団法人エゾシカ協会

食の授業


塚田宏幸 (バルコ札幌)

写真提供・ゆうち自然学校

 先日、稚内の「ゆうち自然学校」と、地元の小学生向けに食のワークショップを開いた。過去にも小学校などで何度か食の授業をさせてもらったが、私はその都度、自分の幼少期を思い出す。小さな頃は、父が自然や料理が好きだったため、毎週のように山や海に連れていってもらった。父は、そこで自然にまつわるたくさんの話をしていたそうだが、当時から私は山の木々の種類を覚えるより、手に入ったグミやコクワの森の木の実の甘さ、魚釣りの手ごたえなど、食に関することばかりに興味をしめす食いしん坊な子供だった。しかし、この時の経験は、私の食を学び楽しむキッカケであり、父を通して山や海で生きるための知識を教えてもらったと思っている。
 食のワークショップは1日がかりで、食べ物の話から料理教室まで行なう。事前の打ち合わせの中で、稚内もエゾシカが増えて社会問題であると聞いた私は、料理教室で作る料理のひとつに、エゾシカハンバーグを入れ、子どもたちには、当日会場に来るまで、何を作るか秘密にした。
 2時間ほど授業をした後、料理を作る前にレシピを渡す。すると、子どもたちは「エゾシカ」という聞き慣れない素材に興味を示した。もちろん、ここにいる子どもたちがエゾシカを知らないはずはない。学校の裏山でエゾシカが出たとか、知り合いがハンターだとか、子供たちはエゾシカを身近に感じている。しかし、この中でもエゾシカを食べたことがある子どもは1人だけ。ここにいる子どもたちにとってエゾシカは動物であってお肉ではないはずだ。その意識に変化を与えることはできただろうか。やがてハンバーグは完成し、「おいしい」と声が聞こえてきた。
 生きるために食の知識を身につける場が食の授業だとしたら、生きるために食べ、食べるための知恵が料理。今、日本は便利になり、食品の保存に頭を使うことも少ないし、生きるために食べるといってもしっくりこない。
 以前、イタリアで会ったアフリカの料理人は「私の地域では電気代が高く、冷蔵庫が使えない。朝、市場に行き食材はその日のうちに使い切る。それでも、私のところは市場が立つから幸せさ」と話していた。もし、我々に冷蔵庫がなかったら、様々な事情で食材が手に入らなかったら、地域で生きる食品を保存する手業と食の知識は高い価値を持つだろう。しかし便利な時代、それは影を潜めている。
 本当に伝えていくべきものはなんなのだろう。北海道において、私たちの身近に生息しながら、社会問題にも資源にもなりうるエゾシカは、そういったことを考える上でも、尊い食のひとつである。エゾシカから食の授業も見えてくる。


エゾシカ協会ニューズレター30号に掲載

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