伊藤英人の狩猟本の世界
292.『動物殺しの民族誌』シンジルト・奥野克巳編、昭和堂、2016年
文化人類学の動物論。少数民族の動物観・死生観と、現代日本人の感覚を比較するとおもしろい。ところ変わればヒト動物関係も大きく異なり、それぞれの主義があることに改めて気づかされる。さまざまな屠殺の流儀があるなか、どの民族も自分のやり方がもっとも肉がおいしいと主張する。
花渕氏は第1章で、真の「動物への配慮」ではなく「論理への配慮」になってしまっていると忠告する。イスラム式屠殺法(291.『ハラル食品マーケットの手引き』も参照)は気絶させず、のどを一突きで刺し、血を流しきる。これをキリスト系は残酷と批判する。しかし、それを読み解くと、反イスラムのネタのひとつとしてこの慣習を取り上げ、バッシングをしている、と著者はいう。
日本ではイスラム式を知らないまま、キリスト式の論理で気絶法を採り入れている。気絶法は痛みを感じさせないというメリット(?)を主張するが、効率がいいために大量屠畜に向いており、消費経済に適しているという側面もある。どのようなやり方がいいとか悪いとか、肉がうまいとかまずいとか、答えはない。
屠殺が日常的に行われる民族にとって、屠殺に対する特別な感情はない。山口氏(119.『ヘラジカの贈り物』著者)は、屠殺への抵抗や罪悪感のほうが新しい感情ではないか、という。罪悪感は、死や屠殺を隠され、見せられずに育ったいびつな感情なのかもしれない。食べること、生きることが罪悪なわけがない。
食の倫理は「感情に流されるのではなく、過度な理詰めで人間の倫理を動植物へと拡張するのでもなく(p.277)」語られるべきとする人類学からの提案に賛成。倫理学よりも冷静である。
日本での、家畜の屠殺や狩猟について考えたい。まず、欧州の根強いキリスト教的自然観をもとにしている愛護団体は幅を利かせていて、日本もその影響を大きく受けているように感じる。気絶方式をとっているし、殺処分や管理捕獲でもガス殺やクリーンキルなど、痛みを意識した(愛護団体に過剰に配慮した、というべきか)厳しいルールが定められている。アライグマは駆除の際にガスでいったん気絶させなければならず、捕獲現場にガス装置を搬入しなければならないが、少数の捕獲ではコスパがかなり悪いし、いったん気絶させる必要性を感じない。また、狩猟では、豚熱拡散防止対策が義務づけられており、宗教や文化どころではない大きな変革が起きている。刃物の消毒だけではなく、土木工事並みの深い穴を掘り、石灰を撒き、残滓を埋める。その後のケアはない。規則どおりに動くとするなら、この作業が狩猟にかかる大きな部分を占めてしまっており、この大規模な「儀式」が流派を問わず全国的に行われていることになる。豚熱の拡大が脅威となるとはいえ、狩猟文化としてはぜんぜんおもしろくない。個人的には、痛みを感じさせないために現場に不釣り合いな機械を導入したり、感染症対策を徹底したりする無機質さよりも、何かに対して祈ったり、獣と静かな時間を共有したりするほうが、広い意味での「配慮」と言えるのではないかと思う。