赤坂猛「江戸初期のシカ皮交易」
  • あかさか・たけし
  • 一般社団法人エゾシカ協会代表理事。

第8回 台湾の梅花鹿等の鹿皮輸入について

私は本コラムの冒頭(第1回)に於いて、「台湾の梅花鹿が絶滅したのは、江戸時代初期の日本とのシカ皮交易による乱獲が原因」と記しました。このことは、1999(平成11)年9月に台湾で開催された「第4回日本・台湾国立公園保護地域経営管理セミナー」において、私が台湾の参加者よりお聞きした話でした。以来、自身の課題「江戸初期のシカ皮交易と梅花鹿の絶滅」と係るようになり、その20年余の足取りを本コラムに連載してきました。

今回は、台湾から我が国へと輸出された梅花鹿等の鹿皮について、江戸初期から18世紀へとたどりまして、本コラムの最終回とします。

 

1.江戸初期の梅花鹿などの鹿皮輸入

表‐1は、江戸時代初期に台湾から日本へ輸出された梅花鹿などの鹿皮の枚数とその推移を示したものであり、朱印船貿易によるもの(川島 1994、本コラム第2回)とオランダ東インド会社によるもの(本コラム第5回)を再掲したものです。

表‐1 江戸初期における台湾から日本への梅花鹿等の鹿皮の輸出数とその推移.単位は「枚」.

西暦年 朱印船貿易(注1) オランダ東インド会社(注2) 合計
1623      
1624 18,000   18,000
1625 200,000   200,000
1626 46,000   46,000
1627      
1628      
1629      
1630 700   700
1631      
1632      
1633 50,000   50,000
1634 75   75
1635 10,000 70,897 80,897
1636   60,440 60,440
1637 4,000 81,700 85,700
1638   152,810 152,810
1639 300 144,015 144,315
1640   15,180 15,180
1641   46,301 46,301
合計 329,075 571,343 900,418

(注1)川島(1994)の表5(p.317)より作成。
(注2)「平戸市史・海外資料編 Ⅰ~Ⅲ」より作成。本コラム第5回を参照されたい。

 

朱印船貿易

朱印船貿易などでは、1624年から1639年にかけて329,075枚の鹿皮が輸出されました。鹿皮の輸出数には、1625年の20万枚から1634年の75枚と、年により著しい「差」がみられました。また、1627年から1629年の3年間など、「輸出数の記載の無い」年が7年ありました。いずれにしても、江戸初期の16年間で約33万枚の台湾の鹿皮が、朱印船貿易などにより日本へと持ち込まれました。

朱印船貿易が行われた時代は、海外渡航朱印状が現存する時代に限定するなら慶長9年から寛永12年(1604~1635)までの32年にすぎない(永積 2001)、とあります。従って、表‐1の1637年(4,000枚)及び1639年(300枚)の輸入鹿皮については朱印船貿易の後となります。いずれにしても、台湾における朱印船貿易は、「後半期」に活発に行われたことがわかります。

オランダ東インド会社

オランダ東インド会社が、台湾に貿易拠点となる商館(タイオワン商館)及び要塞の建設に着手したのが1624年9月(行武 2003)でした。しかし、タイオワン商館の取引は、オランダ側の期待に反して、明官憲がタイオワン向け渡航貿易を規制したため、十分な中国商品の確保のできない情況が1633年末頃まで続きました(行武 2003)。また、管見の限りではありますが、この間のタイオワン商館による「鹿皮貿易」の実態も定かではありません。

しかし、「平戸市史 海外資料編 Ⅰ~Ⅲ」(平戸市史編さん委員会)より、タイオワン商館による鹿皮貿易は、1635年から1641年の7年間で571,343枚と明らかにすることができました(詳細は本コラム第5回参照)。実は、この1635年から1641年の7年間は、幕府が海外貿易政策を大転換した時期でもありました。

まず、寛永12年(1635)、幕府は「日本人の海外渡航及び帰国を全面的に禁止(違反者は死刑)」し朱印船貿易が杜絶し、更に、寛永16年(1639)、幕府は「ガレウタ船渡航禁止令(注1)の発布」によって、鎖国体制が整備されました(岩生 1985)。

1635年の「朱印船貿易の杜絶」により、タイオワン商館は朱印船貿易との競争から解放されることになりました。商館が1635年から1641年の間に輸出した鹿皮57万枚余は、そのような恵まれた商環境のなかでの結果とも言えます。この時代について、国立台湾大学の曹永和教授(1988)は、「日本人の海外渡航は止み、大陸沿岸は安定して来て、オランダの日本貿易も1635年以降飛躍的に増大する」と記しています。

1641年には、「鎖国」以降の貿易は、唐船(とうせん)とオランダ船に限られ、来航貿易地は長崎の出島商館とされ、同地における取引と居留生活は長崎奉行によって直接管理監督される体制が確立しました(行武 2003、p358)。

これ以降の「鹿皮の交易ルート」は、唐船及びオランダ船のみとなりました。

 

2.鎖国後の台湾の梅花鹿などの鹿皮輸出数

タイオワン商館のオランダ船

「臺灣における鹿皮の産出とその日本輸出について」(中村 1953)には、オランダ船が1634年から1661年までに日本へと舶載した鹿皮数などが詳しく記されています。表‐2は、中村考志さん(1953)の「台湾産皮革舶載表(オランダ船による)」(p119)を転載等したものです。なお、表‐2の「鹿皮数量」は、タイオワン商館・長官が長崎出島のオランダ商館長に宛てた書簡等よりまとめたものであり(中村 1953、p117)、その書簡から、私には平戸オランダ商館が作成した会計帳簿の「仕訳帳」(本コラム第5回参照)が想起されました。例えば、1655年の各種鹿皮103,660枚の内訳として、上等品21,690枚、中等品64,720枚、下等品17,250枚(中村 1953、p118)と記されており、この表示は上記の会計帳簿・仕訳帳の記載方法と一致します。

表‐2 オランダ船による台湾産鹿皮の舶載数とその推移.単位は「枚」.

西暦年 梅花鹿皮 サンバー皮 キョン皮 タイワンカモシカ皮 合計
1634 111,840       111,840
1635          
1636          
1637          
1638 151,400       151,400
1639          
1640          
1641 51,060       51,060
1642 19,140 1,150   1,330 21,620
1643 61,580     550 62,130
1644 39,020     1,764 40,784
1645          
1646          
1647          
1648          
1649 27,250       27,250
1650 82,874       82,874
1651 43,530 400 1,010   44,940
1652 91,572 6,920     98,492
1653 54,700 2,000     56,700
1654 27,240 4,880     32,120
1655 103,660 8,000 450 1,274 113,384
1656 73,022       73,022
1657 60,344 5,336   3,443 69,123
1658 94,474 6,380   4,937 105,791
1659 73,110     15,400 88,510
1660 64,898       64,898
1661   2,180   600 2,780
合計 1,230,714 37,246 1,460 29,298 1,298,718

表‐2より、1641年の「鎖国」以降のタイオワン商館による鹿皮輸出の詳細を視ることが出来ます。「梅花鹿」の輸出数量は、1642年の19,140枚から1655年の103,660枚の間で推移し、総輸出枚数は967,474枚でした。梅花鹿皮の輸出数は、年平均で60,467枚でした。続く、「サンバー皮」の輸出数量は、1651年の400枚から1655年の8,000枚の間で推移し、この20年間ほどで総輸出枚数は37,246枚でした。「キョン皮」は1,460枚、「タイワンカモシカ皮」は29,298枚でした。なお、上記のシカ類等の種名の特定については、本連載コラムの第5回をご覧ください。

オランダ東インド会社の貿易品目「鹿皮」には、シカ類の他に山羊類の皮も含まれる(第5回コラムを参照)ことから、タイオワン商館が1634年から1661年までに日本へ輸出した鹿皮の総枚数は1,298,718枚でした。

図‐1は、1634年から1660年にタイオワン商館から日本へ輸出した鹿皮数の推移を示したものです。各年度の鹿皮数は、表‐1,2から求めましたが、表‐1及び表‐2には鹿皮数の不一致が見られます。1638年の鹿皮数は152,810枚(表‐1)と151,400(表‐2)とあり、また1641年では46,301枚(表‐1)と51,060枚(表‐2)とあります。図‐1では、1635年から1641年までを同じ出典書(「平戸市史・海外資料編 Ⅰ~Ⅲ」)からまとめた表‐1の鹿皮数を用いました。また、1661年はタイオワン商館が台湾からの撤退を余儀なくされた年であったことから(後述)、1661年の鹿皮数2,780枚は図‐1に用いませんでした。

図‐1 タイオワン商館による日本への鹿皮輸出数.単位は「枚」.

図‐1 タイオワン商館による日本への鹿皮輸出数.単位は「枚」.

鹿皮の輸出数は、この27年余の間1万5千枚(1640年)から15万3千枚(1638年)、年平均では約7万2千枚で推移してきました。タイオワン商館には、台湾西海岸の中部や南部諸地域から鹿皮が収納されてきました(中村 1953、p108)。台湾の面積(約3万6200㎢)は九州地方の8割ほどであることを想起しますと、タイオワン商館の鹿皮収納圏は決して広域とは思えません。そのような収納圏から、上記のような鹿皮が毎年産出され続けたことに驚きを感じます。図‐1の鹿皮輸出数の推移を視ますと、10万枚を輸出した翌年以降には、ほぼ一様に輸出数が減少しているのは、高い捕獲圧の影響を受けているように感じられます(第5回コラム参照)。

唐船

長崎出島で250年間続いた日中貿易の全貌を明らかにした「長崎の唐人貿易」(山脇 1964)には、「鹿皮は皮陣羽織(鎧の上に着る)、大名奥方の火事装束の上衣、足袋・ズボン、鉄砲の袋」などに用いられたとあります。そして、唐船が輸入した鹿皮数量については、寛永18年(1641)は41,550枚、慶安3年(1650)は48,473枚、正徳元年(1711)は67,607枚と記されていました。

正徳元年(1711)の鹿皮67,607枚の内訳について、山馬鹿皮 13,863枚・大撰鹿皮6,379枚・中撰鹿皮 14,493枚・こびと鹿皮 28,981枚・みとり鹿皮 3,891枚(山脇 1960)とありますが、これらの鹿皮の産地や種名等については定かではありませんでした(山脇 1964、p132)。

また、「近世初期における長崎貿易規模について」(石田 1988)には、明暦3年(1657)の「唐貿易」の貿易品リストがまとめられていました。全92品目のなかに、鹿皮91,063枚、野生のヤギの皮22,300枚、とありました。

以上より、唐船が輸入した鹿皮数量は、1641年は41,550枚、1650年は48,473枚、1657年は91,063枚、そして1711年は67,607枚でした。いずれの「鹿皮」も産地や種名などは不明でした。

石田千尋さん(1988)は「唐貿易の販売品」調査を通じて次のように記していました。「唐貿易の販売品は、唯一の競争相手である長崎オランダ商館長の日記に書き留められていたものであり、近世初期の唐貿易の一年分をまとめた輸入品目・数量に関しては、管見において日本側の記録は存在せず、オランダ側が記録した「貿易品リスト」が唯一」であったそうです。唐の貿易品リストが競争相手のオランダ側にあった、とは驚かされます。いずれにしても、唐船が輸入した鹿皮数量の実態等については、今後の課題です。

 

3.タイオワン商館の台湾撤退とその後の鹿皮交易

オランダのタイオワン商館は、1661年4月に鄭成功(注2)率いる艦隊の急襲等により同年12月にタイオワン(現在の台南市安平)から撤退しました(張 2011)。タイオワン商館は、1624年9月からの37年間ほどで日本へ輸出した総鹿皮数は172万枚余となりました。

新たに台湾の支配者となった鄭氏政権は、所有する大型船団と築きあげた海商ネットワークによって日本や東南アジア諸国と交易しその収入が鄭氏政権を支えました(張 2011)。中村考志さん(1953)は、「鄭氏時代にも台湾の鹿皮が貿易品として重要な意義を持った」と記し、1663年の6,7月にはタイオワンより安海経由で長崎に台湾鹿皮33,660枚、大鹿皮70枚を輸送したと例示しています。また、1672年には、鄭一族は台湾の特産品である砂糖と鹿皮などを長崎に輸送し、鹿皮10万枚をほぼ3倍で売った(山脇 1964、p48)、とあります。

しかし、鄭政権は1680年からの清との戦いに敗れ、1684年、台湾は清の統治下におかれました(張 2011)。清の台湾統治方針について、「清朝当局は台湾領有による財政負担を軽減するため、鄭氏時代の経験にかんがみて、台湾産鹿皮と砂糖を公儀の手で日本に輸出し、その貿易の利をもって充てようと考えた」(曹 1988)とあります。

清朝の長崎貿易は、程なく民間主体で進められていきますが、1700年頃より台湾の砂糖生産の増加とともに日本貿易にあたる船数も増えてゆきました。一方、鹿皮は農業開発の進展につれ、反比例して出荷が減ってゆき、ついには日本市場向けの台湾主要産品は砂糖だけになりました(曹 1988)。また、曹永和教授(1988)は、台湾の農業が開発される以前は平地に多数の鹿が棲息していた、と記しています。台湾のシカは、17世紀初期からの農業開発により、その棲息環境を徐々に奪われてきたことが推察されてきます。以上から、台湾の鹿皮は、18世紀初頭ころより日本向けの主要産品から外されていったように思われます。

朱印船貿易は1602年に始まりました(永積 2001)。台湾での朱印船貿易は、オランダがタイオワンに商館を開館した1624年以前から行われていた(曹 1988)、とありました。台湾の鹿皮貿易は、17世紀初頭から18世紀初頭頃のほぼ1世紀の間、朱印船貿易やタイオワン商館、鄭政権、清政権の主要な輸出品目であり続けたことが視て取れます。


最後に

17世紀初頭以降における台湾の梅花鹿などの鹿皮の輸出数量については、1624年から1639年の間の朱印船貿易により約33万枚、そして1634年から1660年のオランダのタイオワン商館により約172万枚の合計約205万枚が日本へと輸出されました。

続く、1662年以降の鄭政権、1684年以降の清政権においても台湾の「鹿皮」は主要な輸出品目でありましたが、18世紀初頭には鹿皮は「主要品目」から外れていったことは先述のとおりです。

山脇悌二郎さん(1964)は、唐からの総輸入品数量について正徳元年(1711)と文化元年(1804)を比較した結果、文化元年の輸入品では「絹糸・絹織物・砂糖・皮革の大幅な減少が目立つ」とし、更に「鹿皮は全くなくなっている」と記されていました。1711年に唐から輸入された鹿皮は67,607枚でしたが、1804年には鹿皮を含め「皮革(類)」が輸入品目からすべて消えていました。ちなみに、1711年の輸入品目では、「皮革」には鹿皮等15種類あり、総数は85,821枚でした(山脇 1960、1964)。

1712年から1803年までの間、唐からの鹿皮輸入の実態や推移等が気になります。そのなかで、台湾の梅花鹿はどのような関りを有していったのでしょうか。

この連載コラムでは、タイトルを「江戸初期のシカ皮交易」として始めましたが、その舞台は18世紀へと広がってきました。旅は続きます。

末筆ではありますが、コラムの連載に際しましては、web管理者の平田剛士氏に種々お世話になりました。心より御礼申し上げます。


引用文献


(注1)ガレウタ船渡航禁止令の発布 この禁止令は、「日本人は一切海外渡航船に乗ることを禁じる」ものである(岩生 1985、p446)。日本人が海外へ違法出航するために、夜陰に乗じて外国籍の渡航船が港外にでたところを待機していた密航者が「船」に乗り込み違法出国していたことから、寛永16年(1639)に発令されたものである(同、p250)。以上の幕府の「発令」により、「幕府は一応鎖国体制を整備した」(岩生 1985、p444)ことから、上記の「外国籍の渡航船」とは唐船及びオランダ船を念頭においたものと推察される。

(注2)鄭成功 鄭成功は1624年平戸に生まれた。父は鄭芝龍、母はマツ(日本人)であった。17世紀初期、鄭芝龍は武装船団を組織し千隻の船で中国沿岸の海上を支配していた(張 2011)。17世紀中期、清に帰順した父・鄭芝龍と訣別した鄭成功は、東シナ海や南シナ海等の海上武装集団の最高指導者として、10万の精鋭や大小300余の艦船を携えて沿岸域のあちこちで清朝との激戦を繰り広げ一進一退の戦局にあった。1661年、鄭成功は局面打開のために台湾を根拠地とすることを決意し、4月にオランダのタイオワン商館を急襲・陥落させ、12月には降伏させた。商館の長官等が籠城していたセーランディア城(完成に8年余を要した要塞)を明け渡し、タイオワンより撤退させた。鄭成功は翌1662年6月に急逝。【以上、(張 2011)より】


2021年12月11日公開